世界各地で戦争や侵略、虐殺が行われるなか、平和を想像する。戦後81年を迎える今年、戦後が戦前にならないようにと願いながらも、「80年以上、日本は平和だった」と言えるのだろうかと考える。平和や安全を考えるときに使う「国」という言葉に、誰が含まれているのだろうかと問う。私たちは今、誰の記憶や経験とともにここにいるのだろうか。
脱植民地化という言葉から、世界で行われている暴力や忘却に迫ろうとするZINEプロジェクトが「Decolonize Futures」だ。日本や東アジアにおける植民地主義の根深さ、脱植民地化の必要性についての議論を行い、研究者へのインタビューを収録している。「反人種差別、フェミニズム、脱植民地化」、「脱植民地化と環境危機」、「アイヌと脱/植民地化」などのテーマを経て、Vol. 4「〈在日〉コリアンをめぐる教育と主体性」が7月に刊行。刊行を記念して、Decolonize Futuresエディターのsaki・soheeと酒井功雄が、最新号で取材をしているJeong Eun Annabel Weノースウェスタン大学助教授を迎えトークイベントを行った。
Weさんの専門は、韓国文学と脱植民地思想。そもそも脱植民地化とは何か? Weさんは、それに対する単一な答えは存在せず、「植民地主義が多面的な構造的抑圧を生み出すプロジェクトであったなら、脱植民地化もまた多面的である」という。植民地主義の影響は一時代における土地の占領だけではなく、先住民の人々に行われた暴力や文化の抹消、環境破壊、現在まで続く先住民の権利の侵害などと多岐に渡る。だからこそ、それぞれのコミュニティにとって脱植民地化する過程や未来は異なるのだ。
Decolonize Futuresは、「複数形の未来を脱植民地化する」というテーマを掲げている。これは、現在の世界が植民地支配者を中心に作られていることに対する問題提起だ。「その構造では、『ヘテロセクシズム・白人至上主義・西洋文化・科学合理主義』が支配する『一つの世界』しか存在することが許されず、世界各地で存在していた西洋的な世界観に当てはまらないさまざまな自然との関わり方や共同体のあり方はないものとされた」と指摘する。日本においても、「世界」や「外国」を想像するときに参照されがちなのは欧米だ。この��だけを考えてみても、私たちは今なお植民地主義の影響が色濃く残る世界を生きているのだとわかる。だからこそ、まずは「複数の世界」「複数形の未来」を考えることからはじめたい。
民族ナショナリズムに陥らないために、脱植民地化と障がいの連なりを考える
Weさんの2027年刊行予定の著書『Decolonial Becoming: Immobility, Indigeneity, and Disability in Transpacific Korea(脱植民地化的生成:環太平洋的な朝鮮における不動性、先住性、および障がい)』では、日本の植民地支配とその影響がなくなった状態を、朝鮮半島における「脱植民地化」として捉えることに、どのような問題や危険性があるのかを論じているという。Weさんの指摘は、これを脱植民地化として捉えてしまうと民族ナショナリズムに依拠する形となり、新たな植民地主義的な論理を維持・再生産させてしまう、ということだ。
最新号のインタビューのなかで、Weさんは「ナショナリズムは常に、植民地支配への抵抗の武器として機能すると同時に、特定の人々を他よりも優遇するシステムとしても作用してきた」と述べている。ここで、誰が国民に含まれるのかという問いが生まれる。これまでの歴史を振り返ると、誰が「人間」であり「尊厳のある存在」なのかということは恣意的に、そして政治的に決定されてきた。
イスラエル国防相がパレスチナ人を「ヒューマン・アニマルズ」と呼んだことは記憶に新しい。イスラエルはパレスチナ人たちを人から除外することで虐殺を正当化した。また近代西洋において「人間」とされたのは、白人かつ異性愛者などさまざまな特権を持った男性たちであった。そこにはもちろん、先住民、有色人種、女性、クィアなどは含まれてはいない。そして彼らこそが植民地主義の主な担い手であり、より理性的な人間である我々が不完全なその他の存在を支配するという口実を得たのだ。このように植民地主義とともに発展した「人間」をめぐる考え方は、優生学や人種科学と結びついてくる。
ここで、Weさんが焦点を当てるテーマのひとつである「障がい」が立ち現れる。Weさんは、「健常な身体や精神が、障がいのある身体や精神よりも上位に置かれるヒエラルキーは、植民地主義的な序列とも深く結びついている」と話す。「植民地支配は、支配を正当化する必要があり、そのために劣等性の物語に依拠し、被植民地の人びとのなかで『望ましい能力』や、植民者にとって『有用な能力』を定義してきました」。だからこそ、脱植民地化を考える上でも、障がいにまつわる研究や運動がさまざまな生や身体のあり方を検討し、「規範的な生とは何か」と問う方法を教えてくれるという。
国家にとって「役に立つ」身体や能力が規定されてゆく様子は、日々暮らしていても実感することができる。日本においても、ここ数年で「生産性」という言葉は議論の対象となってきた。そして規範的でない生は、公共空間や制度から排除されてゆく。Weさんは、「民族ナショナリズムが、朝鮮半島における脱植民地化をめぐる議論の中で、軍事化された島々に暮らす先住民や障がいのある人々を不可視化してしまう」と指摘する。望ましいとされる身体や精神だけが国家の主体として語られるという構造を拒否しなければ、やはりそれは一部の人��とっての脱植民地化にしかならないのだろう。
済州島、沖縄、ハワイ──軍事化はなぜ島々で進むのか
Weさんが現在研究フィールドとしているのは、済州島、沖縄、ハワイという太平洋に浮かぶ三つの島々だ。「これらの島々を、韓国、日本、そしてアメリカの軍事化された植民地として捉えている」という。そしてそれぞれ異なる植民地化の歴史を持ちながらも、「暴力や戦争、そして軍事施設の建設に対する現在も続く抵抗運動という点で共鳴し合う」様子に焦点を当てた。Weさんは、初めてこれらの地を訪れたとき、いかに自分が無知であったか気付かされたと語る。
「それぞれの島が関連する国家によって周縁に追いやられた現場である一方で、これらの島々をめぐっては非常に強い観光的な美的イメージが存在しています。そのようなイメージによって島々の歴史や現実は隠されているとも言えるでしょう。意識的に目を向けない限り、あるいはそこに暮らす人びとでない限り見えなくなってしまうという事実は、私の立場を実感させられた出来事でした」
Decolonize Futuresの酒井は、「現在の東アジアにおいて、島であるということと軍事化されるということは、切っても切り離せないのではないか」と提起する。米軍基地は、第二次世界大戦後に実質的な植民地支配は終焉を迎えるなかで、それでもアメリカが支配を続け、世界の覇権を握るために設置が進められてきたものだと、酒井は指摘。実際に沖縄は、アメリカと中国という大陸国家に囲まれた島として、日本の「戦略的な拠点」を担わされている現状があり、済州島では基地反対運動があったにもかかわらず、2016年に海軍基地が建設され、今も軍事化が進んでいる。
日本と朝鮮半島を考える上で語られがちなのは、東京とソウルを中心とした国家間の関係だ。国家という枠組みでは「植民地支配は終わった」と語られるものの、周縁に追いやられた地域では米軍基地が建設され、さらに経済的にも基地に依存させられる形となって、支配構造が続いている。そして軍事的な土地として交渉の場に持ち出されるのにもかかわらず、島々の政治的な主体性は認められていない。
一方で、中心から周縁を眼差すだけでなく、周縁から中心を眼差す姿勢も必要だとWeさんは話す。沖縄の辺野古や、済州島で海軍基地が作られた江汀(カンジョン)などの建設現場でリサーチを進めるなかで、その土地のリアリティだけでなく、韓国や日本、アメリカという国が同時に立ち現れる感覚があったという。
文学作品のなかで不安という形で問われる「先住性」
朝鮮半島における脱植民地化を考えるにあたり、Weさんがもうひとつ主題に挙げるのが「先住性」だ。先住民の人びとを考えるときに想像されるのは、アメリカ、カナダ、南アフリカ、オーストラリアなどだろう。それらの国々は、宗主国が植民地を支配・管理するだけでなく、先住民の命、土地、文化、言語などを奪い、入植者の国土、文化、言語へと塗り変えていった「入植者植民地主義」によるものだ。朝鮮半島はかつて日本の占領下にあり、そして現在も分断されているものの、「先住民」という言葉で語られることは少ない。しかし、だからこそWeさんは「先住性」を考えることが大切だという。
文学作品を研究対象として扱うWeさんは、朝鮮半島の文学、アイヌ文学、沖縄文学における日本の植民地支配にまつわる記述のなかで、人びとが「土人」として同定されることへの不安が見られたと話す。つまり、植民地支配を受けた人びとにとって、先住性とは「土人」として非人間化、差別されることを意味しており、そのラベルを貼られることへの不安が常に存在していたというのだ。「完全に主題に上がったり、肯定的に受け入れられたりすることはなかったかもしれませんが、ある種の不安として確かにそこに存在していたのです。それがとても興味深いと感じました」
さらに、文学作品における批判的な想像力にも目を向ける。Weさんが主に関心を寄せているのは、韓国人が、韓国人ではない先住民の人びとに対する植民地主義と向き合い、自分たちもそれに加担していたことを認識するようなフィクション作品だという。それは、先住性を特定の土地や地域に限定して考えるのではなく、韓国人が韓国以外の人びとの脱植民地化をどのように想像し、考えてきたのか問うことができる。さらにそれらの作品の多くが島を舞台としていることから、「韓国の人びとの脱植民地的な想像力が軍国主義という歴史的文脈のなかで形成されてきたと考えられる」と話す。島嶼地域における大規模な基地建設を含み、ある地域における軍事化はしばしば住人の立ち退きを伴う。Weさんは、そのプロセスからも先住性というテーマを考えることができるという。
ディアスポラから、地理と時間の一直線ではない関係性を考える
さらに周縁の島々は、中心を介さずとも互いに関係性を築いてきた。Decolonize Futuresのsaki・soheeは、琉球大学と済州大学の学術的な交流や、沖縄と済州島の女性交流を目的に設立された「県済州会」などを挙げ、ふたつの島にはこれまでも独自の交流があったと話す。地政学的な関連性から、歴史的な闘争の連なりに至るまで、互いに関心を持ってきた過程があるのだ。Weさんは、島々だけでなく、島を離れたディアスポラ(元いた居住地から離散した人びと)同士にも共鳴するものがあるということに注目している。
実際に、10代で韓国からアメリカに移り住んだ経験を持つWeさんは、ディアスポラは地理的な移動だけでなく「島々の伝統やアイデンティティが失われていくという感覚がある」と話す。移動がそのような記憶や経験と結びつくことから、文学や芸術におけるディアスポラの島々への帰還という表現は、過去と未来とのつながりを考えるためのひとつの方法になっているという。「『周縁』という問いが『中心』とは何かを問い直すように、ディアスポラは『過去とは何か』『現在とは何か』を問い直しているのだと私は考えています」
saki・soheeも、済州島にルーツを持つ在日コリアン四世という立場から応答する。日本でも人気のある韓国料理カンジャンケジャンは、あるときまで済州島で食べられることがなかったという。済州島から大阪へ移民として渡ってきたある人が、大阪でカンジャンケジャンの美味しさに出合い、第二の故郷の味として親しんだ。そして済州島に引き揚げる際に、大阪から済州島へカンジャンケジャンの味を持ち帰り、その店が今も残っているという。この経験を伝え聞いたsaki・soheeは「自分たちの経験や具体性が、離散民としてのキャラクターとともに変わっていく」と話す。
軍事化された島々や、植民地支配の歴史を持つ地域には、ひとつの国やひとつの時間軸では語られない多様な経験が存在する。酒井は、「現在日本では、歴史修正主義が蔓延する状況があるなかで、社会が見過ごそうとしている、消し去ろうとしている歴史や記憶について改めて考えたい」と話し、イベントを締め括った。
照りつける日差しの下で、目を閉じて戦争の犠牲者を想うこの時期。私たちは本当にすべての犠牲者のことを考えられているだろうか。「終わったこと」や、ときには「なかったこと」にされている経験や記憶を知ることは、忘却の上で成立した現在の社会に生きる私たちの責任だ。「繰り返してはいけない」と言うときに、「何を」と問い続けることを忘れたくない。
イベントのアーカイブ配信は8月末まで購入できる。
Photos: Daiki Tateyama Text: Hanae Iwasaki
READ MORE



