表参道にある歯医者で口をあけているとき、先生が、150年前、ここは茶畑だったんですよ、と言った。開業してすぐ、歯科衛生士が、廊下で着物すがたの男の幽霊をみかけた。怯えているのをみて先生は、そんなことあるかい、と思いながらも怖くなった。たまたま患者の一人に霊媒師がいたので、その人に相談すると、その幽霊はこの土地にもともといる人であり除霊してはならない、と忠告される。
気になった歯医者は、一応報告した方がいいだろうと大家さんにそのことを話すと、このあたりはかつて茶畑で、江戸の終わりに佐賀藩の人たちが、やがて地価が上がる、ときいて買ったそうだ。大家さんが古い写真をみせる。歯科衛生士が、この人かもしれないです、と妙に納得する。写真には大家さんのご先祖の佐賀藩士がうつっていた。その歯科衛生士は辞めてしまったからいまも幽霊が出るかどうかはわからない。塩を撒きたいけれど大家さんのご先祖だとしたら塩は失礼やから、と先生が言う。私は、口内炎を焼くための酸をつけてもらいながら、それをきいていた。
江戸時代、表参道のあたりには茶畑が広がっていた。近くのキャットストリートと呼ばれている通りは、暗渠化されているけれど、下に穏田川が流れている。その水で茶の木がよく育った。川にはいろいろなものが流れるから、昭和のはじめ、白いおくるみを着た赤ちゃんが生きたまま流れてくることもあった。子どものころ神宮前に住んでいたご婦人は、いまでも、あの子まだ生きていたわよね、と友達同士でよく思い出している。川のそばは暮らしやすいからか、地中深く掘ると縄文時代の集落がある。渋谷駅からはナウマンゾウの骨もでてくる。
歯医者は、住んでいた家のほぼ斜向かいにあったので、私の家も、茶畑だったということかと思いながら眠った。そのことをきいてから、いつもの散歩道に、たくさんの時間が重なってみえてくる。人が通した道以外にも蝶道や獣道があって、生きものによって、道のかよい方がちがう。家のそばで野良猫を拾ったときも、それを思った。
人が過ごしてきた時間や記憶を、道はぜんぶ吸いあげていて、すべておぼえているのではないかと思いはじめた。人の記憶はやわらかくあいまいだからすぐ変わってしまう。だから言葉で書き残そうとする。本を読んでいるとき、書かれなかったことをよく思う。言葉は大切だけれど、書かれたことは書かれなかった膨大なことの影にすぎない。
話を聞いたり本を読んで歩いていると、知らないはずの記憶が、むこうからやってくる。目の前の景色よりはっきりと、道がおぼえていることが、たちのぼってくる。
表参道にも大規模な空襲があった。そのことを知ったのは、数年前、磯田道史さんとごはんを食べていたときで、東京大空襲しか知らなかった私は、表参道にも空襲があったんですか、と驚いた。1945年5月25日の夜、渋谷、青山、赤坂、山手を中心に焼夷弾が落とされたから山手空襲と呼ばれている。470機のB29が一晩にきた。焼夷弾には、ゼリー状の油がつめられていて地上に落ちると爆発し、なかの油が飛び散って、燃える。
焼夷弾が落ちるのは雨音に似ている。その夜だけで、3258トンの焼夷弾が落ちたけれど数字ではよくわからない。火事があちこちで起きて、表参道の欅並木の欅はほとんど燃えた。いま植わっている欅のほとんどが戦後に植え替えられたものだ。一本だけ、はっきりと戦前から植っているとわかるのは、表参道ヒルズの駐車場のそばにある一本で、当時建っていた同潤会アパートの防火壁が優秀だったために建物が燃えず、欅も無事だった。
焼夷弾がつぎつぎ落ちてすさまじい熱風が生じ、人は焼け焦げて、ほとんど枯葉のようになる。落ち葉が風に乗せられてくるくるひとつのところに集まったりするように人間もひとつに吹き寄せられて、みずほ銀行(※現在は建て替え中)の隅に山をつくった。黒い死体が自然と重なり合っていたのを多くの人がみている。埋葬しようにも、倒れている人が多かったから、当時走っていた路面電車の倉庫に、たくさんの遺体が運び込まれた。
空襲があったとき、表参道に鉄筋コンクリートの建物は、旧安田銀行(みずほ銀行)と山陽堂しかなかった。いまの青山通りは1965年のオリンピックのときに拡張しているので、当時の道はもっと狭く、山陽堂はいまの三倍のひろさだった。炎から逃げてきた人で建物のなかはぎゅうぎゅう詰めだった。山陽堂には地下に井戸があり、そこから水をくんで、みんなで水をまわしてかぶり、窓ガラスにかけて建物を冷やした。赤ちゃんをおぶっていた人が、背中の子に水をあげてください、と頼んだけれど、水を赤ちゃんのくちに持っていってはじめて、その子の息がないことがわかる。
山陽堂書店四世代目店主の遠山(秀子)さんは、山陽堂さんで命が助かったと、美談として語られることは、心のどこかで申し訳なさがあるとよく言う。安田銀行に入れなかった人たちは折り重なって亡くなっていて、いちばん下の人は、蒸し焼きされてももいろの体になっていた。山陽堂の前にも入れなかった人が倒れて重なっていたと、遠山さんはきいている。2015年、山陽堂に一本の電話がかかってきて、たまたま遠山さんが電話をとると、受話器の向こうの人が、突然、話しはじめた。空襲の次の日、灯籠のところに、白足袋を履いた女の人の足がたてかけてあったのですが、それは、どうしてだったでしょうか。
おじいさんの声だった。1945年当時中学生で、空襲の翌朝、家族に頼まれ、青山の空襲の様子をみにいく途中だった。自転車で、宮益坂上から青山通りを赤坂にむかって走っているとき、表参道交差点にある灯籠に、つま先からふとももの付け根までの一本の足が、みつけやすいように立てかけられてあった。いったいどなたの足で、誰が運んでたてかけたのか。
この話をきいてから、表参道の交差点にたつたび、灯籠の前に、一本の足を思い出すようになった。見たこともないくせに戦争をしらないくせに思い出している。
この文章は、2023年の12月にはじめて絵の個展をしたときに書いた文章で、このあとも、聞き取りに伺ったり、5月25日に開かれる慰霊祭に参加したりしている。
去年、慰霊祭に参加していたとき、偶然テレビの人に呼び止められて、街頭インタビューを受けた。「戦争を風化させないために、若い世代はどうしたらいいと思いますか」ときかれたとき、風化させない、いう言葉が自然と出てくる時点で風化はしているし、あなたも本当は、すでに忘れられていると思っていますよね?とカメラの隣にいる記者に問いかけたくなった。あなた方、戦争体験者を探して関係ないご老人をうつしては違った!と言っていましたよね、とも。
わたしは毎日いろんなことを忘れている。忘れてしまううえでどうしたらいいのか。夏にばかり思い出して、思い出さないよりはいいのかもしれないけれど。
Photos: Kenshu Shintsubo Artwork & Text: Mariko Asabuki Editor: Yaka Matsumoto
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